1975年11月21日、SAS機はハンブルグ空港に到着した。
秋の木もれ日のなか、成田を出発したのに、空港の周辺の白樺の純林に猛吹雪がふきつけていて、わが眼を疑った。ミュンヘンのバイエルン心臓センターに留学が決まっていたが、ハンブルグ大学心筋保護の仕事をこの眼で見たかった。この秋、いや、初冬の一日が私のヨーロッパの第一日である。
ハンブルグ大学のキャンパスは港から内陸に入ったEppendorfという住所にあり、有名な心筋保護液を用いた心停止はEppendorfer stillstand(エペンドルフ心停止)と呼ばれていた。実際にみた術中の心筋保護はMgイオンを多く含んだ保護液の大動脈基始部からの注入と徹底した局所冷却であり、冷却生食水を術中10〜20リットル使用していた。KイオンとMgイオンの重要性は当時もよく知られており、局所冷却がきわだっていた。面白いことに心臓外科の低体温重視の思想は北国の医科大学を中心に発展してきた。カナダのBigelow、日本の岩手医大、東北大、そしてこのハンブルグ大学である。
港町ハンブルグはヨーロッパ内の多くの国からフェリーが、まるでバスターミナルのように集まっており、イギリスからも2時間程度で来れるようである。イギリスの若い心臓外科医が一人見学に来ていて、よく更衣室で話をしたが、彼は本当にボロボロの肌着をきており、布の部分より肌の露出の方が多かった。朝、何もはさんでいない、イースト菌を用いない固いパンを5つ買って病院に来る。医局のコーヒーで2つを食べる。手術が終わって午後の3時から4時ごろ残りの3つを食べる。夜は2人で競争して勉強した。時にOberarzt(日本の講師にあたる)が街に連れ出して夕食を食べさせてくれる。港町なのでSeafoodが美味しく夢のようだった。ハンブルグ名物の飾り窓のあたりも案内してもらったが、美しく哀愁がただよっていて、とてもこの世のものとは思えなかった。
毎日吹雪で-10℃であったが、日本の秋のうすいトレンチコートで出発したのは甘かった。金がなくこの先が思いやられるのに大枚4万円をはたいて、羊皮の重いコートを買った。それはコゲ茶色で重さは10kgほどあり、かなり前に重いことを理由に捨てたが、捨てる瞬間はハンブルグのきびしい日々を憶い出し、思わず「さようなら」と言ってしまった。
ドイツの科学的な考えと、人間に対する深い洞察をかい間みる機会もあった。ICU、手術室は清潔区域として峻別され、速乾性の消毒液で手先を消毒するのである。速乾性の消毒薬は現在は当たり前であるが、日本にはまだなく、帰国後、大阪のある企業と協力して国産の製品を創薬した。驚いたのは、手に一定量の消毒液を取らないとスイッチが入らず開かないシステムドアであった。人間の弱さを考えて作られたシステムだろうが「そこまやるか」とも思う。これもある企業と相談したがシステムが1000万円をオーバーするということで断念した。
約一ヶ月後、ハンブルグでの研修を終え本来の留学先のミュンヘンに移動することとなる。 |