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エベレスト登頂記
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すべての山に登りたい!そして2005年春再度のエベレスト山征服をめざす!

2005年4月10日 - 16日


2005年4月16日: ベースキャンプから

私達は4月6日にスイスを出発し、バンコクの上空を飛びカトマンズに入った。カリ(カリカプラー、登山隊のリーダー)は、そこでの担当がシェルパのドージェではあったものの、最終調達物を手配する必要があった。ドージェは、ポテトやパスタ、キャベツ、お米などを買い、カリは結構な量のお菓子などをスイスから持ってきていた:チョコレートや、乾燥肉、チーズ、ビスケットやその他たくさんの食べ物があった。私達は旧市街でショッピングをしたり、花が一杯の素敵なホテルの庭で休んだりして、カトマンズでの穏やかな一日を楽しんだ。

4月9日、私達はチベットのラサに飛んだ(高度3600m)。不幸にもヒマラヤ山脈は高い雲ですっかり覆われていたため、エベレスト山を見ることは出来なかった;もし天気がよければ、世界最高峰のエベレスト山と世界第三位のカンチェンジュンガ山の間を飛ぶこのフライトは非常に素晴らしいものであったろう。

ラサは現代的な中国の町とチベット仏教の聖地が混在したような魅力的な場所である。最も印象的な建物はポタラ宮殿だが、チベットで最も聖なる場所はジョカン寺院だ。私達は両方とも訪れ、ブッダやラマ像、絵画、ブロンズ像、色付き木工細工や金色の屋根などの素晴らしい芸術を見て感動した。

4月11日、ラサ上空標高4,450メートルにある美しい眺望と渓谷を持つブンポーリ山に登った。(英語名はヴァス山というそうです);山の頂上はチベットの祈祷旗で覆われていた。それから私達は車でシガツェまで行き、十分時間があったので貴重な修道院であるタシルンポ寺を訪れた。そこは非常に荘厳で美しく、多くの僧侶たちが住んでいた。

ティングリで一泊した後、4月15日に私達はベースキャンプに到着した。そこには既に私達のためにテントが貼られていた。必要なものはほとんどカトマンズから直接車で運んでもらっていた;

ところがそこで問題が発生。毛沢東主義の反政府主義者達がときどき道路を占拠して塞いでいるのだ。しかしとりあえずは万事順調に行って、エベレスト山に挑戦する6週間に必要な物が一杯詰まったバッグは全て持っている。

私は風邪をひいてしまった。それほどひどくはないけれど、やはりこういう状況ではいつもより注意することが必要で、医師は抗生物質を服用するように指示した。それで今は良くなっているが、この先もエベレスト登頂に支障をきたすことのないように祈るのみだ。

食事は常においしかった;私達は大いに話したり、料理をしたりと忙しかった。初日の午後、到着後数時間、強い風邪が周囲を襲い、私達のいくつかのテントが飛ばされ、キッチンテントや食事保存テントも飛ばされた。本当に一瞬の出来事だった。けれども私達には十分なテントや食事の材料があり、今では全てが正常に設営されなおし、背景にはエベレストがあるこの素晴らしい場所でとても幸せを感じている。

たくさんの登山隊チームがこのベースキャンプに滞在していて、多くのチベット人が“レストラン”と書かれたテントを設営していた。ここにいる人達は、そこでアルコールやコーラやお茶を飲むことが出来た。(私は個人的に、私がエベレスト山頂に到着することができるか、または戻ることになるまで、この登山中はアルコールを一滴も飲まないと決めていたので、それに従った。)さらに、登山隊の荷物をさらに上のアドバンストベースキャンプまで運ぶためのたくさんのヤク(野牛)もそこにはいた。

私達はまだ何日かここに滞在し、より環境に順応するために簡単なハイキングをしたりする予定だ。しかし私は抗生物質を飲む必要がある限りハイキングはできないだろう。高度に関しては、素晴らしさに対してため息が出るだけで、特に何も感じなかった。


ベロニカ

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2005年4月17日 - 23日


2005年4月20日: ベースキャンプから

ベースキャンプでの素晴らしい日が何日か過ぎていった。メンバーの中には環境に順応するためにハイキングをしたりする人もいた。私はちょっとした風邪のため昨日までキャンプに滞在していたが、少しずつ準備を始めるべき時期にきていた。そこで私は5700メートル地点の指標のところまで上ってみた。(山ではなく岩場だった。)ここは549メートルの標高差があり、到達するのに2時間半かかった。アルプス山脈を登るよりペースが遅くなってしまうようだ!

明日、私達のグループの最初のメンバー達が2日間かけてさらに上のアドバンストベースキャンプを目指す予定だ。私は自分のコンディションによって2日のうちに彼らの後を追うつもりだ。アドバンストベースキャンプまでは荷物はヤクが運んでくれる。

ベースキャンプではおいしい食事を楽しんだ。
今日の昼食は蒸したポテト、サラダ、サラミ、チーズそして手作りのパンだった。夕食はコース料理だった。いわゆるスープ、メインコース、デザート。コック達は非常に料理が上手だった。彼らはあるパン屋で研修をして、シナモンロールのような甘い物と同じくらい上手にパンを焼く方法を学んだそうだ。夕食後はたいていしばらくそこに居て、コーヒーや紅茶を飲みながら冗談に興じていた。夜は良く眠れていた。

ベロニカ


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2005年4月24日 - 30日


2005年4月25日: ノースコルから

私は4月22日までベースキャンプに滞在して、4月23日に中間キャンプ地まで登った。そこはめざす次のキャンプ地まで半分のところにあり、標高5,800メートル地点だった。素晴らしい場所だが、キッチンはかなり質素だった。想像してみてください。一人のシェルパがずっとそこにいて(かなり退屈な仕事である。というのは一日中ほとんど誰もそこにはいないのだから。)彼は、誰かそこに立ち寄る人がいればスパゲッティを作るのだ。

4月24日、私達は標高6,400メートル地点の次のアドバンストベースキャンプを目指して出発した。それは素晴らしく技術的にも楽なハイキングであった。そこまではイーストロングバク氷山の凍った氷の尖塔に沿って登っていった。そのベースキャンプはエベレスト山の麓に位置し、キッチンもありここでは料理もする。全員自分のテントを持っており、それが氷堆積の石の上に設置される小さなお城になるのだ。

私はとても気分が良く、他の人はそれほど良くもないある日のこと。カリは私に、ものごとをそんなに否定的に考えてはいけないと言った。実は、ここまで登るハイキングはそれほど簡単ではなかったけれど、全く問題はなかった。誰もここまで何の問題もなく登ってきたわけではなかった。今日、私達のグループのメンバーの最初の3人が、最初の高地キャンプになる7,070メートル地点のノースコルまで進んだ。気分の良し悪しにもよるが、私も2,3日のうちに目指すことになるだろう。ノースコルで眠ることは偉大な山に対する最初の小さな攻撃でもあり、そのため人々はここに戻るのだ。

今日は私の誕生日である。朝、私のグループの男の人達が“ハッピーバースデイー”の歌を歌って祝ってくれた。

ベロニカ


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2005年5月1日 - 7日


2005年5月2日: アドバンストベースキャンプから(6,400メートル)

信じられないほど美しい夕暮れだった。次のアドバンストベースキャンプは既に影になっており、(そのため寒く、ダウンジャケットを着ているにも関わらず指がとても冷たかった。)しかしエベレスト山は太陽の中にあり、とても安全に見えた。私はこれまで7,070メートル地点のノースコルに2度到達しそこで寝たことがある。ここはこの高さに慣れるのに良い場所だ。しかし、ノースコルに到達するのは私にとって多大な努力を要することであり、2年前よりずっと困難だった。なぜかは分からないが、5月中には挑戦するエベレスト登頂に対して、私は落ち込んでかなり悲観的になってしまった。2003年には、全てがうまくいった。もっとも、困難だった経験を忘れてしまって良い事だけを覚えているだけかもしれないが。

3人のメンバーが昨晩7,500メートル地点のキャンプ地で過ごしたが、非常に大変だったようだ。テント中に小さなつららが張り、強風がそれらを揺さぶっていた。私達のキャンプ地のノースコルは、巨大な氷の壁の下に位置していたものの非常に穏やかだった。私はスープとパスタを料理し、多くの飲み物を用意したのでとても良く眠れた。

明日私はベースキャンプまで下る予定だ。ここにこれ以上留まる意味がないからだ。私の体調がよくなるように祈る。これは何らかの健康上の問題で(風邪か?)高度のために起こっている症状ではない。私は元気で常に食欲もある。ベースキャンプはもっと低い位置にあり、快適な場所だ。

2005年5月5日: ベースキャンプから(5,200メートル)


2日前、私達はベースキャンプに下りてきた。全員7,000メートル地点でしばらく過ごしてきた。今は天候は悪化してきていているのでより低い地点に滞在し、この後にやってきて登頂に挑戦すべき時期の目安となる“ウェザー・ウィンドウ”(程良い天候が続く期間)を待つのが良い。かすかに雪が降っている。私達は興味深い話をしながら皆で一緒にランチを取った。私達のコックは、典型的なスイスのジャガイモ料理、キャベツとにんじんのサラダ、目玉焼きを作ってくれた。

アドバンスト ベースキャンプでの一日

登山をしない日々はとても怠惰に過ごしている。寝袋の中で12時間後、人々は太陽がテントを照らすのを待っている。日の出前、テントの壁は美しく輝いている氷の結晶で覆われている。寝袋の中では、顔の周りが湿った空気のために凍結する。

そして太陽が昇り、テントは明るく黄色い宝石のように輝く。すると気温は急激に上がる。いつも私はグループの中で朝起きるのが一番遅い。私は「朝方人間」ではないのだ。既に朝食が用意されている:卵(目玉焼き、ゆで卵、オムレツがありその日によって違う)、新鮮なパン(そう、手作りのパン!)、バター(凍っている)、マーマレード、蜂蜜、コーヒー、ミルク、チョコレート、紅茶、ジュース。私達は一緒に座り、議論し、冗談を言い合った。ついにあまりに飽きてしまったので、立ってテーブルから離れた。

こんな素晴らしい日には何をすべきか?その辺をちょっと歩いて散策したり、自分の持ち物をまとめたり、テントを掃除したり(いつも埃っぽい)、写真を撮ったり、他のグループの人達を眺めたり、メールを書いたり、日記を書いたり、そうこうするうちに2時間経ってお腹がすいてきて、何か食べ物をもらいにキッチンに行ったり、家にいる家族に衛星電話で電話をしたり、テントで仮眠をしたり、メンバーがノースコルに登るのを眺めたりして過ごすのだ。私達はかなり遅く起きるので、すぐに昼食の時間になり、また皆が食事用テントに集合した。一緒に座ってコーヒーや紅茶を飲みながら、再び冗談を言い合ったり議論をしたりした。

午後になると、しばしば天気が悪くなった。普通は少し雪が降る。自分の小さなお城であるテントに戻って、寝袋の上で眠るのにちょうど良い頃合だ。読書をしたり眠ったり、音楽を聴いたり、本当に怠惰に過ごす。時間はあっという間に過ぎる。私達は皆、何もしない時間を楽しんだ。皆、長年忙しく働いてきた人達だ。歯科医、外科医、電気技師、ビジネスマン、登山ガイド、ホテルのオーナー、光学技術者、そして化学者の私。

私達のメンバーは誰一人として物質主義ではなかった。ときどき、「エベレストを買うことは出来るか」というような話を聞くが、幸い、ここではそのようなことはない。世界中のお金を集めても、あなたをエベレストの頂上に連れていくことはできないのだ。自然は何と恐ろしい山を創ったのだろう!

夕食は午後6時だった。メニュー例は、ごはん、辛い手作りのソースを使ったヤクの肉、フルーツサラダ、そしてコーヒーやお茶、ビスケットやチョコレート。もう5月になり、午後7時には暗闇がキャンプを覆う。皆夜のためのコーヒーやお茶を瓶に一杯入れる。エベレスト山や星々は見えるのか、見えないのか。キャンプ中に「お休みなさい。良く眠れるように!!」という陽気な叫び声が響き渡る。リーダーのカリと一緒にいるので、私はキッチンから瓶にお湯を一杯もらう特権を与えられた。私はそれを足を温めるために寝袋に入れる。しかしまず最初に抗凝固薬を飲まなければならない。(私は機械弁を植え込んでいるので。)それから大急ぎで服を着替え(本当に寒いので大急ぎになる)それを寝袋の中に入れる。寝袋の中に居るときだけ心地良く幸せを感じる。


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2005年5月8日 - 14日


2005年5月13日: ベースキャンプから(5,200メートル)


我々の物流面で面白い事実がいくつかある。
私は22人中唯一の女性である。すなわち;

●3人の料理人:全員ネパール人

●4人のキッチンヘルパー:全員チベット人

●6人の登山シェルパ:全員ネパール人

ペンバはフレンチ ペンバと呼ばれている。というのは、彼は英語だけでなくフランス語も流暢に話すからだ。彼は私専用のシェルパで、登山中、私の寝袋や2個目の酸素ボトルを運んでくれる。

●私達のグループリーダー、6人の男性登山家(スイス人2名、ドイツ人2名、オーストリア人2名)


ベースキャンプでは、私達は1日およそ180リットルの水を必要とする。ロンバクから流れ込んでいる川で台所から100ヤード(91.44メートル)離れたところを流れている川から水を汲んでくることができる。アドバンスト ベースキャンプでは、1日に110リットルの水が必要である。ツララを熔かす必要があるからだ。この違いはどこから来るのかといえば、アドバンスト ベースキャンプでは私達はシャワーを使わないし、衣服も洗わないのだ。

天候は今、かなり複雑で、私達はあと何日かここに留まることになるだろう。本をたくさん持ってきていて良かったと思う。

ベロニカ


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2005年5月15日 - 21日


2005年5月15日: ベースキャンプから(5,200メートル)

現在、天候がとても複雑だ。恐らく、「ウェザーウィンドウ」(程良い天候が続く期間)は5月22日頃に2日間あるのではないかと思う。しかし、基本的にこの登頂を成功させるためには、私達には「ウェザーウィンドウ」が5日間必要なのだ。悪条件下でスタートすると、登頂は非常に困難になってくる。(強風下ではとても危険だ。)

今のところ、5月26日ごろを見込んでいる。ということは、私達はあとしばらく下のベースキャンプで過ごすことになる。問題はアドバンストベースキャンプは人間にとって高すぎる所にあることだ。自覚はないかもしれないが、人々はそこでは回復できない。理想的なのは体を慣らすために2日間だけアドバンストベースキャンプに滞在し、タイミングよく「ウェザーウィンドウ」に当たり、頂上に挑めることだ。

エベレスト山に登ることは、時としてギャンブルのようなものだ。しかし、そのチャンスは一度しかなく非常に危険だということを、我々は忘れてはならない。(1度しかチャンスがないというのは、平均的なエベレスト登頂者は、一旦8,000メートルの高さに到達すると2度目に挑戦するための十分な体力がなくなり、天候のために下山することを余儀なくされるのだ。)

しかしながら、我々のリーダーであるカリは、今日、エベレストにより近づき我々のシェルパに指揮を与えるために、中間キャンプを経由してアドバンストベースキャンプに行く。彼はノートパソコンを持っていってしまったのでベースキャンプからe-mailを送ることは不可能になった――私からの次のe-mailを受け取るのは数日後、もしくは1週間後になるかもしれない。

ベロニカ



2005年5月20日: アドバンストベースキャンプから

私達は再度、アドバンストベースキャンプ(ABC)に進んだ。私達は5月18日と19日に登り、一晩は中間キャンプで過ごした。

ハイキングはいつものように過酷だが素晴らしかった。5月18日には非常に冷たい風が吹き、私は、自分の健康状態が悪化するのではないかと心配になった。けれども、中間キャンプでは夜を無事に過ごし、5月19日の朝は気分よく目覚めることができた。それで2日目のハイキングはそれほどつらくはなかった。実際、何時間も氷河の頂上を歩くことはとても美しいことだと思う。

私達は、ここABCで再び数日間待たなければならないようだ。天気予報によるとこれから何日かは天候が良くないようだが、2〜3日はジェット気流が途切れる可能性があるとのこと。今年に入ってこれまで未だに誰も頂上に到達しないとは非常に特別なことだ。例年だと、最初の登山家グループが、ほとんどは南側からだが、5月15日前後に頂上に到達しているのだ。南側は風もほとんどないので北側からの登山に比べて有利なのである。しかしながら、今日は5月20日なのに、エベレスト山頂はまだ誰にもタッチされていない。

これ以上話すことはありません。忍耐あるのみ。何をするべきか自然が教えてくれるでしょう。このような大自然の中にあっては私達は本当に小さな生き物でしかないのです。

ベロニカ


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2005年5月22日 - 28日

2005年5月24日: アドバンストベースキャンプから

ここでは考え事をする時間がたっぷりある。例えば、成功とリスクが紙一重だということ。リスクか成功か。それとも成功か死か・・・。5月21日には25人が北壁(私たちと同じ)からエベレストの頂上に到達した。その中で“メンバー”(登山料を支払ったクライマーのことをここではこう呼ぶ)はたったの7名、残りはすべてシェルパだ。シェルパはメンバーの面倒を見る者とロープの固定に従事する者がいる。スロベニアから来たクライマーがひとり、山頂の辺りで亡くなった。(頂上には到達できずに)。彼はロシアのグループのメンバーでしたが、山頂の端にひとり取り残されてしまったのは明らかで、メンバーからかなり遅れをとった上に疲れ過ぎて下ることができなかったようだ。日本人のクライアントを伴って山頂から下ってきたシェルパが、そのスロベニア人に下りるように言ったのだが、シェルパのカルマさんも自分のクライアントのことで手一杯でスロベニア人を手伝うことができなかったのである。

そして、5月22日、更に21名が山頂に上った。ほとんどが中国のグループのメンバーでした。彼らは全員無事に戻ってきたが、シェルパたちの強力なサポートに助けられた者もいた。この両日はとても寒く、風が強く、指とつま先の凍傷に苦しむクライマーもいた。一人はもはや歩くことができずに、担がれて下りてきたが、その原因が凍傷なのか、足を怪我したためなのかは分からない。

ここまで南壁からは誰も登頂に成功していない。これは本当に珍しいことなのである。風の向きがいつもと違って北西からではなく、南西から吹いているためなのだろう。そのせいで南側の頂上辺りには、北側よりも少し強めの風が吹きつけている。南側から頂上を目指しながら、途中で引き上げた人たちもいる(南側のクライマーは北側のクライマーよりも注意深かったから?)。

Kari Kobler グループのメンバーである私たちは、ご想像通りに、ちょっとイライラしている。でも、私たちは注意深い登山者の仲間に入るようだ。ここでは登山者にふたつの異なるタイプがいることが良く分かる。リスクを受け入れ、天気予報が良くなくても果敢に山に挑んでいく一部の人たち。さっき書いたように、5月21日にはラッキーな7名と死亡した1人がいた。ラッキーな人たちは今とても幸せでしょう(凍傷で苦しんでいれば別だが)。彼らと対称的に、私たちは注意深い一団に入るだろう。臆病者と言えるかもしれない。私たちは42歳から54歳のグループで(私が最年長)、たとえどれほど強く山頂に上りたいと思っていたとしても、気候条件が良くない限り登るつもりはない。指やつま先を失うリスクを負いたくはないのである。前のメールでも書いたように、風がない天気の良い日が少なくとも3日間は必要になる。風を避けて登ることができるので、North Colには風がある日でも登ることができる。しかしながら、雪の尾根に連なる部分では風に直接さらされてしまう。山頂に挑む日はできるだけ風の少ない日で・・・、そう夢見ている!

待つのは本当に大変だが、これもエベレストゲームの一部なのだ。

ジリジリして、日々、年を取っていく。

べロニカ


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2005年5月29日 - 6月4日

2005年6月4日: アドバンスト ベース キャンプ から (6,400メートル)

昨日、私は頂上に到達することなく7,800メートル地点のキャンプから下りてきたことを報告する必要があると思う。私が人工弁植え込み患者であることを考えれば、2年前の7,800メートルや8,550メートルへの到達も素晴らしいことだが、これは全ての人が容易に想像できることではないだろう。

6月1日、私達は三度目のノースコルに登ったが、4月28日や5月1日よりもかなり気分が良かった。(私は朝早く目覚めたが、スタミナが十分ではなかったのだ。) 今も過酷であることには変わりないが、概ね大丈夫である。
 
6月2日は非常に風が強く吹きつけており、風にさらされた雪の尾根を登らなければならなかった。風に吹き付けられながら登るのは非常に困難を極める。7,800メートル地点のキャンプへの最終地点は岩や土石に覆われているため、到達するのが困難なのである。ようやく私がそのキャンプに到着したのは9時間後で、シェルパは私達のテントを、石を利用した不思議な土台の上に取り付けていた。そこは険しく吹きさらしの場所だった。風はとても強くテントを激しく揺さぶっていた。テントの中はとてもうるさかったが、シェルパ達がベストを尽くしてこのテントを風に飛ばされないように設営してくれたということを知っていた。激しい音のために私たちはほとんど眠ることができなかった。

6月3日の朝、風はあいかわらず強かった。我々のチームリーダーのKariは、グループの2人のメンバーが下山したがっていると無線で伝えてきた。さらにKariから、今日の天気予報によれば、明日6月4日は風が弱まるものの、頂上まではまだ25ノット(46.3キロメートル)あるとも言われた。それを考えると、頂上へ到達する可能性はとても低いように思えてしまった。このことと、強風の中8,300メートル地点のキャンプへ登るのが非常に困難だったことを考え、昨日、私は下山することを決心したのだ。私は昨晩中に体力的には回復したものの、アドバンスト ベース キャンプ(ABC)に下りたときには、かなり疲れ果ててしまっていた。

しかし、昨日の朝Kariが私に言ったこととは対照的に、今日6月4日の少なくとも朝は穏やかな日になっている。メンバーのうちの二人が頂上に到達したが、3番目のメンバーが頂上付近のどこかに戻ったようだが、その詳細な消息はまだわからない。
今シーズンは、およそ50-60人の西洋人がエベレスト山の北側から頂上へ到達したが、3人が亡くなっている(5%)。多くの登山家が今も凍傷を患っており、強風のためにたくさんの優秀な登山家が下山を余儀なくされている。

ベロニカ


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2005年6月5日 - 11日

2005年6月11日: バンコクより



編集者より:
ベロニカは、このメッセージを故郷スイスへの帰途、バンコクから送ってきました。彼女は、自分がなぜ頂上から引き返すことを決心したのかその理由と、彼女の登山チームのメンバー1人の命を奪った悲劇について書き記しています。



親愛なるジョージ、シャルロット

6月3日の朝、標高7,800メートル地点のキャンプは風が非常に強く、私の下山のきっかけとなる要因が重なった。最初に下山を決めたのは、メンバーの一人Norbertで、彼は「天候の良い場合に限り登山を続ける」と奥さんに約束していたようである。Kariは衛星電話で最新の天気予報を聞こうとしたが、はっきりと聞き取れる状態ではなかった。私は、一ヶ月前にNorth Colに二度行った時、体調が悪かったことを思い出した。今回はその時より良い状態ではあったのだが、これまでの3人の犠牲者の事と、下りの長い道のりの事を考えてしまった。我々は、体力を消耗させる標高に位置する、アドバンスト ベース キャンプ(ABC)で12日間過ごしていたが、「行け、べロニカ、君ならできる!」と言ってくれる人は誰もいませんでした。私はPeterよりも体調は良く、高地キャンプでも食べたり、飲んだり、眠ったりできていた。しかしこの季節は、天候が穏やかな日は無いに等しく、風の吹かない穏やかな時間が、たった数時間あるだけであった。

間違った選択だったかもしれないが、私は引き返すことにしたのである。Kariと数名のシェルパ、そしてDieter、Peter、Christianが続行を決めた。Norbert、Mario、そして私が、安全を優先しABCへ下ることにした。強い風が過ぎた午後11時、Dieter、Peter、そしてChristianが、頂上を目指し、8,300メートル地点のキャンプを出発した。ChristianとPeter、そして3人のシェルパは登頂に成功したが、Dieterは、2003年に私が引き返したポイントで、同じく引き返した。

Kariは至急スイスに戻らねばならなかったので、ABCに下りた。6月4日の夕方、我々は、ChristianとPeterが8,300メートル地点のキャンプに、そしてDieterは7,800メートル地点のキャンプに居て、全メンバーが無事だと思っていた。しかし、Dieterは7,800メートル地点に到達しておらず、翌朝、キャンプのテントから100メートル上がった地点で、うずくまって亡くなっているのを発見された。私はなぜ彼が亡くなったのか、私なりの仮説を立ててみたが、確証があるわけではないので、ここでは伏せておきたいと思う。

これは、我々登山隊のとても悲しい結末ではあったものの、私の選択がある部分では正しかったという事を、再認識させられたのも事実である。エベレストは時に非常に危険な表情を見せるのだから。登頂前だろうが後だろうが、もし登山家が体力的に疲れ果て、途中で下山を余儀なくされた場合、必ずしも安全な場所に到達できるという保証はなく、結果的に死につながることもあり得るのだ。今年エベレストでは、北側で5名、南側で3名と、平均を上回る計8名の命が奪われたそうである。

私達は今スイスへの帰路にあり、6月9日の午前7時にチューリッヒに降り立つ予定である。手伝ってくれる人を見つけ次第、写真を送りたいと思う。

ベロニカ


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