藤井フミ子さんは、水泳のコーチとして、また自身も水泳やシンクロナイズドスイミングを行う充実した生活を送っています。また、3人のお孫さん(4歳と1歳半の双子)の面倒をみるために、月に一度は新幹線に乗って約1週間、娘さんの元を訪れるという忙しくも幸せな生活を送っています。ゆっくりしている暇もないほどです。
このような活動的な生活を送っている藤井さんが、8年前に心臓カテーテル診断を受けた医師から「あなたの心臓は今、崖っぷちにあります。」という宣告を受けたときのショックがどれほどだったかは想像に難くはないでしょう。自覚症状は全くなく、激しい水泳の練習をこなしてきているのですから・・・・・・
確かに、フラッと眩暈を感じることはあったものの、疲労からくるものだろうとたかをくくっていたのです。
1997年3月。毎年人間ドッグの検査を受けていましたが、この年に限って申し込みを忘れていて、何とか頼み込んで最終日にぎりぎり診てもらえることになったというのですから、運さえも藤井さんに味方していたようです。その時に行われた聴診器検査で収縮期心雑音が発見されたのです。
1997年4月、紹介された都内の大学病院で先天性大動脈弁二尖弁による大動脈弁狭窄症と診断されました。全く自覚症状がなく、高齢の義理のお母様の介護を義理の妹さんと二人でされており、その傍らでスポーツクラブのスイミングコーチと趣味のシンクロと囲碁の練習に励む日々でした。
大学病院には三ヶ月に一度超音波の検査を受けるために通院していました。二年目に入る頃、循環器内科の先生から心臓カテーテル検査を勧められ入院しました。検査の夜には心臓血管外科の先生を紹介されるほど深刻な病状だったようです。
「手術を受ける決心がなかなかつかなかったのですが、相談した健康保険組合の女医さんからの、手術は先延ばししないで早く受けたほうがいい。心臓弁は人工弁で新しく取り替えることができても、心臓はその手術が遅くなればなるほど、どんどん悪くなっていくのだから。。。というアドバイスが背中を押してくれたのです。」と藤井さんは話してくれました。
自分の経験から、「もし手術を迷っている患者さんがいらっしゃるなら、是非、恐れず、先延ばしにしないで手術を受けて下さい。自分がこのように話すことで、少しでも時期を逃さないで手術を受けようと思ってくれる患者さんがいるなら、そのためならいくらでも自分の体験を話す覚悟がある。」とも話して下さいました。
彼女はまた日本水泳連盟のコーチの資格を取った関係で、日本水泳のオリンピックチームのドクターともお付き合いがあり、彼に手術後の報告をしに行った際に言われた言葉が心に残っています。「藤井さんは、今も泳いでいるの?水泳のコーチはこれからも続けるの?もしそうなら藤井さんのこの体験を生徒さんに話して聞かせなさい。皆さんに伝えてあげなさい。できる ことなら、その体験を何かに書き残したりするのがいいと思いますよ。」
術後ずっと、自分にとって恩師ともいうべきドクターのこの言葉が心に強く残っていました。確かに自分がこの病気を知らされたとき、その病気のことや実際手術を受けた患者さんがどのように生活しているか心から知りたいと思ったのを思い出しました。病気そのもののことは医学書で多少調べることができたものの、もっと頼れるものが欲しかったし、何よりも実際に患者さんの話を聞きたいと切実に望んでいたのです。
そんな彼女が本当に偶然から、このウェブサイトを知ることになり、一人でも多くの患者さんに自分の体験から得たことを話したいと私たちに語ってくれたのです。
1999年9月8日、心臓弁をセント・ジュード・メディカル®人工心臓弁(機械弁)に置き換える手術が行われました。 9月15日の誕生日は病院の集中治療室で迎えました。お子さんや友人からのカードがたくさん貼られている様子を見た先生や病院のスタッフの方々が、「今日がお誕生日なの?」と、やさしく話しかけてくださったあと、皆で「ハッピー バースデイー トゥー ユー〜」と歌ってくださったのです。今まであれほど感激したことはないといってもいいくらいの嬉しい経験だったということです。
1ヶ月弱の入院期間を経て、9月28日には退院することができました。入院期間中はコップを持つのもやっとで、退院当日は、家に到着して玄関の扉を開けるのもつらく、戸棚の開け閉めもやっとな程、つらかったとのことです。しかし、それからわずか5週間後の11月には主治医から、水泳を再開しても良い!との許可が出るまでに回復していたのです。 再び水泳が出来る!!と胸躍ったものの、やはり最初は怖くて、友人に付き添ってもらい泳ぎました。その最初の日に300メートル〜500メートル泳ぐことができ、それを見た友人は感激のあまり泣き出してしまいました。あの体が思うように動かせない入院の日々を思うと、こんなに早く水泳を再開することが出来るなどとは、夢にも思わなかったでしょう。これも彼女を励まし続けた家族や友人、病院のスタッフの方々の温かい支えがあったのは言うまでもありません。そして何よりも、藤井さんには「手術を受けたからといって、落ち込んでおとなしく過ごす必要なんてない。前より元気になって、水泳や人生を謳歌したい!」という、あきらめない強い意志があったことも忘れてはいけないことでしょう。
手術を受けた9月8日を“ハートの記念日”と友人が命名してくれました。
今年は7回目の“ハートの記念日”を迎えます。藤井さんはこの日に込めた思いを次のように話してくれました。
「素晴らしいドクター、スタッフの方々、温かく励ましてくださる友人達、そして家族に支えられてここまでまいりました。心電図にも表れない異常を最も基本的な医療器具といわれる聴診器で発見して下さった先生、最先端の医療器具である人工心臓弁で置換術を行って下さった最高の心臓血管外科医の先生方にはどんなに感謝しても足りないぐらいです。私は新しいハートを頂いたのです。“ハートの記念日”を重ねるたびに感謝の気持ちは大きくなります。」と。
冒頭で藤井さんが水泳のコーチをしていることに触れましたが、彼女の人生の核を成すとも言える彼女の水泳の歴史について記したいと思います。彼女と水泳との関わりがこのような「体験談」に彼女が出てくださった動機のひとつでもあるのです。
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| 1972年 |
お子さんの「子供水泳教室」についていって、そこから水泳史がスタート。 |
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| 1975年 |
日本水泳連盟のコーチ資格試験受験 合格。
広島県営プールでママさんプールのコーチを開始。 |
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| 1979年 |
東京に戻り、池袋のマンモスプールでシンクロナイズドスイミングを習う。 |
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| 1981年 |
シンクロのコーチ資格も取得。 |
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その後、自由が丘のスポーツクラブで、15年間 水泳の指導にあたる。
余談ですが、このスポーツクラブには有名人も通っており、名前を聞けば誰でもわかる有名人を何人か教えていたそうです。
さらに、15年前には、女性コーチ3人で「よりきめ細かい指導」を求めてレンタルコースで、水泳スクールの運営も始めました。スポーツクラブのコーチと自分達のスクールの運営とコーチという、非常に活動的な生活を送っていたのです。 現在ももちろん全て続けていますが、「意識的に頑張り過ぎないようにしている。」とのことです。気持ちは元気に積極的に、だけど無理しすぎないというバランスの良さで、心臓病という大手術を受けたという気負いを持たず、気をつけるべきことには十分注意を払いながら、手術前と同様に自然に元気に生活している藤井さん。彼女とお会いして話を聞いているだけで、私達もとてもすがすがしい気持ちになり、心なしか元気になっているような気がしました。
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